昭和50年06月14日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてると云う事が無い。」

 昨日十三日会は大変昨日盛大でした。昨日の研修で一番私くしは感じた事は石井喜代司さんの発表された、馬鹿と阿呆になる事云う事は人間最高の知恵だと云う、もう私しは是には本当に恐れ入りました。あのう馬鹿と阿呆と云う事で、こりゃもう大きな信心と言わば是だと思うです。大きな信心はだから馬鹿と阿呆なれば、大きなおかげが受けられると云う事になる訳ですけれども、確かに是はもう喜代司さんの哲学です。
 もう人間ね生きておりました、あらゆるその動物の中の人間は、知恵を頂いとるとこう云うのです。その知恵の中でもですね、最高の知恵が馬鹿と阿呆になる事だと言っとる。ね。だからこそ他の動物達に君臨して行く事が出来るのが人間だと。様々の知恵を働かせて様々にしますけど、そのギリギリ最高の云うならば、人間がこの世で愈々幸福になれる事の為の、是は最高の知恵だと言っとります。ね。
 だからそういう信心を身に付けると云う事。例えば成程腹を立てんと云った様な事が、どんなに素晴らしい事かと云う事が解りますね。是は馬鹿と阿呆にならねば出来る事じゃありません。先の世まで持って行かれ後の世まで残ると云う、その今日は御神徳を受けると云う、信心すれば誰でもおかげを受けると云うのは、そういう信心に依っておかげを受けて行く。人間の幸福のいろんな条件が足ろうて来るけれども。
 それはあの世まで持って行かれると云う事ではないのです。だからあの世までも持って行けると云うのは、矢張り道に基づいた修行が出来なければならん。昨日の御理解を引用しますと、天地に道あり、人の踏み行う道ありと云う事になるです。その天地の道と人の踏み行う道と云う物が、一つになり一体になって真の道は開かれると云うのです。この道真の道を辿らせて貰うと云う事がです、大きな信心をする馬鹿と阿呆になっての、最高の人間の知恵を体得すると云う事はです。
 真の道が開かれると云う事にはならんのです。おかげの道は開けても。真の道は言うならば、人間として是が本当だと云う事に、人事の限りを尽くし言うならば、人が人遍なら私しは行人遍と云う生き方を、愈々身に付けて行かねばならないと思う。昨日最後の締めくくりを信徒会長がしておりました。もう四時になりましたからそれを聞かせて頂きよりましたら、私が頂きます事が、あのう富士山が逆さ富士と申しますか、富士山が何とかのあれはぁあれは池でしようか。
 あのうそのままこう映ってる訳ですね、そりゃもう凪いどる時には、そのままそこに写しとる様に綺麗に映っておる。そういう綺麗に逆さ富士がその所謂冨士の陰が写っておる所を頂いたんです。素晴らしいなぁ素晴らしいなぁと、例えばその影を見て例えばおかげを見て素晴らしいなぁ素晴らしいなぁと云うておるだけではねいけない。その実際の富士山に一歩一歩登って行くと云う信心にならなければいけない。
 是からの合楽の信心はそう云う所に一つ、お互い信心の焦点を置いて行かねばならないと云う、お知らせを頂いた。ね。云うならば信心にいよいよ打ち込んで行かねばいけないと云う事です。だからそれと是とが一つになっておかげの世界、神徳の世界が開かれる。そう云う信心をしてこそ、初めてあの世にも持って行けれこの世にも残して置けれると云う事になるのです。
 如何に例えば精進しておっても、辛抱しておっても頑張ってもです、あの世にも持って行けこの世にも残しておけると云う、なら信心の精進をしておると云うてもです、それではお徳にならない。矢張り本気で言うなら馬鹿と阿呆にならせて頂けれる、寛大な心と云う物を、私共が身に付けて行くと云う事と同時に、人力の限りを尽くさして貰うて信心修行に。所謂信心すれば誰でも受ける事が出来る。
 みてると云う事が無いと云う程しのおかげ、成程こういう信心が足ろうて出来る所に、あの世に持って行けこの世にも残しておけとくと云う事を思います。是はもう愈々ね本気で神様が平等におかげをやって有ると仰る。世界中の氏子に平等におかげをやってあると仰るが、ね。どんなに例えばあのー馬鹿でもチョイでもですね、本気で馬鹿と阿呆になろうとする様な願いを立てて、それを自分の身に付けて行こうと精進するなら、是はもう誰でもがおかげを受けられる。
 成程神様が平等におかげを下さっている事が解りますよ。問題は本気でそういう心になると云う、決心をするかしかないと云う事です。ね。昨日久留米の佐田さんがここでお届けをなさっておられます。その前の日にお婆ちゃんが布団を頂かれた。だから是に蚊帳のおかげを頂いたらもう完璧だとある意味。蚊帳のおかげを頂いたらもう煩わしいと云う事が無いと云うのです。
 布団のおかげを頂いたら暖かぁい、云うならば状態の中に沢山な自分の周囲の人達の暖かい思いの中に、云うならば安楽のおかげを受けれると云うのです。ですから是はあのうお婆ちゃん、あなたは今のまま布団を頂いとんなさりゃ、私しが本気で馬鹿と阿呆になってね、所謂左巻になって蚊取線香にならして頂くから、もうお婆ちゃんはそげな修行しなさらんでん蚊帳ば頂かんでん、蚊取線香があるなら煩わしい思いをせんで済むけん、私しが愈々馬鹿と阿呆になる修行さして頂くと云うて。
 親子が話したと云うお届けがありました。けれども是はそのう理屈でありましてね、それではおかげにならんです。どんなに例えば佐田の奥さんが馬鹿と阿呆にならせて頂く、所謂蚊取線香になる左巻にならせて頂いてもです、唯奥さんの周囲には蚊が落ちるでしょう。けれどもお婆ちゃんの上にまで落ちるとは絶対ないです。ね。不安とかいらいらとか、もやもやとか云った様なもの無くなる、今まで信心しよるけんでお婆さんがおかげを頂くと云う事は絶対ないです。
 是は何処までも銘々のものです。だから銘々が蚊取り線香にならなきゃいけんです。愈々左巻にならなければ。ね。是は奥さんがやっぱり佐田の奥さんが頂いとられる、あそこの大黒様がお祀りしてあります、あそこのこう立った様な大黒様ですがね、それがその打ち手の小槌の柄が長ぁかつげなもん、だからその打手の小槌ちゅうならこうして手に握るとこだけでであって、こうやって打ち振るだけのもんです。
 けど柄が長かと云う事は、是はなんち云うですかね、ハンマーち云うですかねの様に、こりゃはまぁあだ佐田さん本気で打ち込まにゃいかんとじゃろうの、と云うて言うた事でした。ね。今日皆さんに聞いて頂いたのはそれです。本気で蚊取り線香になると云う事と。同時に只蚊取り線香になっとりさえすりゃ良いかと云う、成程それは煩わしものは落ちましょう。色々な言うならばおかげは受けられましょう。
 蚊取り線香になると云う事は馬鹿になると云う事ですけれども、馬鹿と阿呆になっとけば、言うならおかげは受けられましょうけれども、言うならその打ち込まなければ神徳は受けられんのです。だから結局馬鹿と阿呆にならせて頂く本気での信心修行をさせて頂くと同時に打ち込まなければ、打ち手の小槌としての役はなさんと云う事です。打ち込むそこからですね、あの世にも持って行けこの世にも残して置けれると言う、云うならば有難いおかげが受けられる訳です。
 なら打ち込むと云う事には又限りが無い事です。勿論馬鹿と阿呆になると云う事も厳密に云えば限りが無い事です。けど此処にはっきり御神徳が受けられる、あの世にも持って行かれる。この世にも残して置かれると云う程しの、神徳が受けられると云う二つの信心が、此処に打ち出されたのですから。その打ち出されたその信心に則っての日々の信心修行、日々の云うならば参拝修行。信心修行に愈々本気で打ち込ませて頂かねばならんと云う事になるのです。そこから色々の信心が又生まれて参りましょう。 
 もう人間の幸福の言うならば、本当の意味に於いての幸福の条件と云うのは、愈々私共がですね、最高の人間として最高の知恵、もう極めて極めて極めた所にですね、人間の本当の幸福と云うのは、馬鹿と阿呆になる事だと悟らせて頂く時、もうう是に徹した生き方を、身に付けて行けれる事になるのです。是はもう本当に哲学以上の哲学だと私しは思います。と同時に例えば素晴らしいなあと見て居るだけではない。
 富士山を下から眺めて居るとか、湖に写って居る只富士山を眺めて居るだけでなくて、その富士に一歩宛でも頂上を目指してです、何処まで登れるか。私共が何処まで極める事が出来るか、と云う様な信心修行所謂一生が修行じゃと、仰せられる修行も神徳を受けさせて頂く事の為の、修行がです積み上げられて行く。そこに自分が愈々高められると云うか、云うなら高度な信心と云うか、云うなら視野が愈々広うなる所のおかげが受けられると思うですね。
   どうぞ。